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2024年11月21日
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チェルノブイリ・ツアー②
2015年10月19日
チェルノブイリ訪問記の続編。
四号炉を見た後は、プリピャチという街に向かいました。
ここは原発職員らのために作られた街です。
バスのなかで見たドキュメンタリーでは、事故が起こる前のにぎやかで非常に豊かな街の姿が映しだされていました。この街はかつて「憧れの街」として名を馳せていました。平均所得はキエフよりも高く、ソ連中から優秀な科学者が集められていたそうです。高層マンションが並び、文化施設も充実していた。
しかし、原発事故後、この街の住人には退避命令が出され、現在は「ゴーストタウン」となっています。避難の様子は以下の動画でも見ることができます。
かつての市庁舎。この横には要人も泊まっていたという高級ホテルの跡がありました。
市民の憩いの場、文化センター
文化センターのなかにはディスコ跡が。この中には体育館や映画館もありました。かつては市民で賑わっていたのでしょう。
時が止まったままのミニ遊園地。
子どもたちの声は聞こえてきません。
そしてこちらはサッカー場。遠目には草木が覆い茂っており、ここが何の場所だったのか想像することも難しい状況です。このスタンドだけが、サッカー場だったことを示す唯一のものです。
学校跡。恐らく子どもがワイワイ騒いでいた教室や食堂も今やめちゃめちゃ。金目のものだけを取り出して、そのまま放置されて29年。無造作にガスマスクや子供用の人形が散らばっていますが、なかにはジャーナリストや観光客が写真撮影のために「意図的」に置いたものもあるとか。このガスマスクは、米国との核戦争に備えて学校に常備されていたという説明を受けました。
物悲しげな教室。1986年に、例えば7歳だった子たちは今36歳。我々とそんなに変わらない世代です。彼ら・彼女たちはこの経験の後、どこで何をしているのでしょうか。そんな事を考えながら、学校跡地を後にしました。
今回の訪問で、自分でもよくわからない何か不思議な感情を持ちました。
いまだに気持ちの整理がついていません。
ここに訪れる前は、広島・長崎・福島の記憶を持つ日本人の一人として、きっとチェルノブイリを見れば、何かしらのショックを受けると考えていました。もちろん悲劇であるということは間違いないのですが、正直に言うと、あまりにもリアリティがない。
この場所が当時のまま残されていると言われながらも、逆にそれがあまりに「観光地化」されているように思えたことが主要な理由かもしれません。訪問中、別のウクライナ人ツアーやベラルーシ人ツアーに何度か遭遇しました。彼ら自身もまた我々と同じく写真をとり、わいわいツアーを楽しんでいるようでした。
ツアーコンダクターは、今のウクライナの子どもたちがあまりにも事故について知らないので、それを語り継いでいく必要がある、とその強い使命感を語っていました。そして、「フクシマではこういう観光ツアーはあるの?今後できそう?」と尋ねてきました。「観光地化プロジェクト」があるのは知っていましたが、ここにきてそれがよい選択肢(しかも誰にとって)のかどうかわからくなってしまった。それが現段階の正直な感想です。もう少し考えないといけない課題ができました(完)。 ↓ブログランキングに参加中です。よろしければ、1日1回ポチっとお願いします。
四号炉を見た後は、プリピャチという街に向かいました。
ここは原発職員らのために作られた街です。
バスのなかで見たドキュメンタリーでは、事故が起こる前のにぎやかで非常に豊かな街の姿が映しだされていました。この街はかつて「憧れの街」として名を馳せていました。平均所得はキエフよりも高く、ソ連中から優秀な科学者が集められていたそうです。高層マンションが並び、文化施設も充実していた。
しかし、原発事故後、この街の住人には退避命令が出され、現在は「ゴーストタウン」となっています。避難の様子は以下の動画でも見ることができます。
かつての市庁舎。この横には要人も泊まっていたという高級ホテルの跡がありました。
市民の憩いの場、文化センター
文化センターのなかにはディスコ跡が。この中には体育館や映画館もありました。かつては市民で賑わっていたのでしょう。
時が止まったままのミニ遊園地。
子どもたちの声は聞こえてきません。
そしてこちらはサッカー場。遠目には草木が覆い茂っており、ここが何の場所だったのか想像することも難しい状況です。このスタンドだけが、サッカー場だったことを示す唯一のものです。
学校跡。恐らく子どもがワイワイ騒いでいた教室や食堂も今やめちゃめちゃ。金目のものだけを取り出して、そのまま放置されて29年。無造作にガスマスクや子供用の人形が散らばっていますが、なかにはジャーナリストや観光客が写真撮影のために「意図的」に置いたものもあるとか。このガスマスクは、米国との核戦争に備えて学校に常備されていたという説明を受けました。
物悲しげな教室。1986年に、例えば7歳だった子たちは今36歳。我々とそんなに変わらない世代です。彼ら・彼女たちはこの経験の後、どこで何をしているのでしょうか。そんな事を考えながら、学校跡地を後にしました。
今回の訪問で、自分でもよくわからない何か不思議な感情を持ちました。
いまだに気持ちの整理がついていません。
ここに訪れる前は、広島・長崎・福島の記憶を持つ日本人の一人として、きっとチェルノブイリを見れば、何かしらのショックを受けると考えていました。もちろん悲劇であるということは間違いないのですが、正直に言うと、あまりにもリアリティがない。
この場所が当時のまま残されていると言われながらも、逆にそれがあまりに「観光地化」されているように思えたことが主要な理由かもしれません。訪問中、別のウクライナ人ツアーやベラルーシ人ツアーに何度か遭遇しました。彼ら自身もまた我々と同じく写真をとり、わいわいツアーを楽しんでいるようでした。
ツアーコンダクターは、今のウクライナの子どもたちがあまりにも事故について知らないので、それを語り継いでいく必要がある、とその強い使命感を語っていました。そして、「フクシマではこういう観光ツアーはあるの?今後できそう?」と尋ねてきました。「観光地化プロジェクト」があるのは知っていましたが、ここにきてそれがよい選択肢(しかも誰にとって)のかどうかわからくなってしまった。それが現段階の正直な感想です。もう少し考えないといけない課題ができました(完)。 ↓ブログランキングに参加中です。よろしければ、1日1回ポチっとお願いします。
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