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2024年11月22日
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バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~
2017年10月20日
さて、サラエボ2日目。
本日はブラックツーリズムの詰め合わせでございます。割とハードな内容がありますので、覚悟してかかってくださいませ。
まず、サラエボ市内を歩いて、ある場所に向かいます。
途中、人々の営みを感じる街中でありながら、気付く事があります。
そう、建物が…銃撃の痕だらけ…。
たった20年前まで、この地はユーゴスラヴィア紛争、とりわけ厳しかったボスニア紛争の激戦地だったのですね。
自分の備忘も兼ねて、ユーゴ紛争について簡単におさらい(私の付け焼刃サマリーなので、ご指摘あれば宜しくお願いします)↓
===================================
・ユーゴスラヴィア連邦の一員であったボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴ解体(クロアチア独立等)の動きを受け、1992年3月に独立を宣言。
・ボスニアはそもそも、ボスニャク人(ムスリム)が4割・セルビア人(正教徒)が3割・クロアチア人(正教徒)が2割と、ほぼ均衡するような形で異なる民族が共存していたが、独立を求めていたのは、このうち、ボスニャク人やクロアチア人だった。
・ゆえに独立に反発するセルビア人と、セルビア人を無視する形で独立を進めたボスニャク人との民族間対立は劇的に悪化、独立宣言翌月には武力衝突が発生する事態へ(クロアチア人は独立支持派ではあったものの、ボスニャク人と一枚岩ではなかった)。
・ユーゴ解体を避けたいユーゴ連邦軍はセルビア人を支持し、ボスニャク人勢力と衝突、ボスニア全土で、両陣営による空爆や民族浄化といった、おぞましく、激しい内戦が繰り広げられることとなった。
・激しい戦闘は3年半続き、1995年10月に漸く和平合意がなされた。
・この内紛は死者20万人、避難民200万人を出したとされる。
===================================
途中、公園を通りましたが、記念碑と銅像がありました。
銅像の横には、看板があり、英語の記載もあったので読んでみると…
スレブレニツァ(後ほど書きますが、ボスニア紛争でボスニャク人への大虐殺のあった村の名前)で、セルビア軍に捕まったボスニャク人の息子ネルミンに、降伏するよう呼びかける父、ラモの様子だそうです。後にこの親子は、2008年に虐殺の跡地から遺骨が見つかったそうです。
誰かがこの姿をみて、記憶に残し、この銅像を建てる事を考えたのでしょう。
胸が痛みます。
記念碑の方には「ボスニア紛争で命を落とした子供たちの為に」と記載があります。子供の名前と生年、没年が刻まれています。よくみると、みんな私と同年代です。生きていたら、同級生だった子も沢山いました。黙祷。
そして、こちらは市内の道端に点在する「サラエボのバラ」。なんだと思いますか?
ここは市民が砲撃によって命を落とした場所で、えぐれたアスファルトに赤い樹脂を流し込んで固めたものです。その広がる赤いさまから、「サラエボのバラ」と呼ぶのだそうです。
樹脂で固めていないけれど、恐らくここも砲撃があったのだな、とわかる様なえぐれた場所が他にも何箇所もありました。
朝から行くべき場所ではないと思いつつも、こちらのギャラリーにちらりと足を運びました。(つきあってくれたA家ありがとう。母に話したら「またそんな場所行ったの!?」と呆れていました。)
ボスニア紛争では「民族浄化」と呼ばれる、おぞましい大量虐殺がありました。こちらのパネルはボスニアで虐殺が起きた場所を示す地図。
特にこのギャラリーのテーマになっている、スレブレニツァという場所で起きたジェノサイドは、世界的にも有名で、それに関するフォトギャラリーということで、腹をくくってみて来ました。(Wikiにも項目があるので、気になる方はどうぞ。「スレブレニツァの虐殺」)
写真は禁止なので、入口のパネルのみ。
大量のビニールシートに包まれた、埋葬を待つ夥しい数の遺体(↑のパネルの写真)。
埋葬する為に集められたシャベルの山。
亡くなった方の名前が延々と刻まれたパネル。恐らく一家全滅だったのだろうということは、同じ苗字の方の名前が長く続いているのを見て、推測する。
代理戦争に興じる国際社会を揶揄する風刺ポスター。
いたるところから煙のあがる廃墟の中、寝かされている赤ちゃん。
砲弾が弧を描いて着弾し、爆発する映像。
なんというか、カラーの映像が残っている、ということに衝撃を受けてしまった。
人間は、あやまちを繰り返すおろかな生き物だなあ。
このギャラリーでは、こちらのポスターに胸をわしづかみにされたので、購入。
UN - United Nothing
と書かれています。国連からPKO軍として派遣されたオランダ兵が壁に落書きしたもの、と言われていますが、これ以上の皮肉があるでしょうか。
激戦地へ派遣され、その場にいるだけで何もできない。彼は何を思ってこれを書いたのでしょう。
そして、気持ちが落ち込んだあとに向かった場所は、こちらの黄色い建物、”Holiday Inn Hotel"。
今Holiday Hotelという名前になっていますが、ボスニア紛争時、市内で唯一営業を続けたホテルで、多くの報道記者がこちらのホテルに滞在し、ボスニア紛争の現状を世界中に発信していたそうです。
中は割とにぎわっていました。我々はコーヒーを1杯いただく。
夫にLINE電話で繋いでみたら、「どこおんねん!」とつっこまれました笑。
このホテルの前の、この大通りも大変有名で、別名”スナイパー通り”と呼ばれていました。
何故かというと、ボスニア紛争時に、両陣営が、この通りを通るものは老若男女動くものはなんでも片っ端から狙撃していたからだそうです。(尚、水を汲んだりする為に、この通りを通る必要がある人は多かったのだそう。)
それから、少し離れた場所にある、こちらは広大なお墓。
真新しい白い墓石の数々。刻まれた没年は、のきなみボスニア紛争の起きていた1992年~1995年です。
中には、5人家族全員同じ没年が刻まれた並んだ墓石も。
さすがの我々も、閉口。またしても合掌、黙祷。
それから、サラエボで最後に訪れたのが、こちらの博物館。
http://tunelspasa.ba/#Dobrodo%C5%A1li
サラエボ・トンネル博物館
博物館の壁も見事な蜂の巣状態ですね。
サラエボはボスニア紛争時に、敵陣営に完全に包囲され、物流ルートのほぼ全てを遮断されました。そんな状況下、医療物資や食料品、負傷者や病人の輸送の為に、秘密裏に作られたのが、サラエボ郊外から、サラエボ市内へ抜けるこの約800mのトンネルでした。
どれくらい包囲されていたかというと、パネルによればこんな感じ。詰んでます、四面楚歌。
赤い部分は全て敵、敵のいないところは山です。
今はたった数mしか残っていませんが、トンネルの内部にも入ることができます。
映像をみると、雨水がしたたり、とても快適にはみえませんが、サラエボ市内に残された人々の、命綱の役目を果たしていたわけですね。
博物館の敷地には"The Place that ended 20th Century(20世紀を終えた場所)”と書かれた看板がありました。
20世紀を終えた場所をあとにし、次の目的地へ向かいます。
途中、いたるところに”Don't Foreget" / "Never Forget"といった標語が書かれた壁を見かけました。
ボスニア内戦は、まだ歴史に出来ていない、消化しきれていない、今も人の胸に生きている出来事なのだと改めて実感。
移動中のどんな小さな村の家の壁にも、銃撃の痕が残っていた事は、きっと忘れません。
さて、気持ちを切り替えて次の目的地はモスタル。サラエボから南へ120kmほど下った場所にあります。
モスタルには世界遺産の有名な橋、ネレトヴァ川に架かる「スタリ・モスト(古い橋)」があります。
最近ではクロアチアのドブロブニクなんかからも、1日ツアーが出ているので、訪れる日本人が増えているそうです。
この橋は、残念ながらボスニア内戦の時に破壊され、2004年になって再建されたもの。
やはり、モスタルにも悲しい歴史がありました。
ボスニア紛争前、モスタルは各民族がモザイクのように入り乱れて暮らす街だったそうです。
モスタルは紛争中、18ヶ月の間包囲状態となり、両陣営がそれぞれ教会やモスクを破壊しあう激しい戦闘が続きました。
そして今では、橋をはさんで片側がキリスト教徒、片側がムスリムの住む街、という風に東西に分断されて暮らすようになってしまったそうです。
10年前にモスタルを訪れた方に「当時はまだ暗くて、橋も再建されておらず、とても観光地と呼べる場所ではなかった」と言われたので、モスタルの街と人々が、一体どれほどの悲しみや憎しみを飲み込んで、今この場所で、隣りあわせで暮らし、復興を遂げてきたのだろうと、こみ上げるものがありました。
モスタルの街中の壁にも書いてありました。「スレブレニツアを忘れない」と。
そして今回のお宿。
Mちゃんが選んでくれたお宿がね、最高にね、可愛いんですよ!!!
お人形が部屋を出たところに座っているんですが、等身大サイズなので、けっこう怖い…。ドアあけるといるので、毎度「ひぇっ」ってなってました。
博物館もかねたこのお宿。オスマン帝国時代からの名家のおうちだった場所らしいのですが、奇跡的にもボスニア紛争中で被害をほとんどうけず、こうして残ってくれていました。
Webもあったよ。
http://www.muslibegovichouse.com/
お部屋の内装も可愛いよー。
荷物を置いて、再び出かけます。
スタリモスト以外にも可愛い橋があるので、行かれる方はぜひお散歩を。
移動に疲れた我々は橋を眺める特等席を陣取って、くれゆく夕日を眺めることにしました。日没後のライトアップされた橋も素敵でした。
夕食は、ボスニアのお肉をもりもり食べました。こんなにTHE・肉!なのに、意外とすんなり全部食べたし、胃もたれもしなかった。ビールはモスタルのビール、モスタルスキェを頂きました。
そんな感じでサラエボとモスタルな長い1日終了。
この晩は、あまりにも胸がいっぱいで、サラエボで見たもの、モスタルで感じたもの、道中で気付いたこと等々、夫と夜1時間くらい長電話してしまった(日本は早朝だったのに、付き合ってくれた夫ありがとう)。
人道的介入ってなんだろうかとか、なんか色々頭をぐるぐる回る夜でした。
次回はまた移動日ですよ!これからはライトな部分のみ!
バルカン旅行記①~世界遺産の旧市街、モンテネグロの街コトル~
バルカン旅行記②~魅惑のボスニア・ヘルツェゴビナ、首都サラエボへ~
バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~(このページ)
バルカン旅行記④~メジュゴリエ、ステチュツィ、そしてモンテネグロへの帰還~
バルカン旅行記⑤~夢のスヴェティ・ステファンとオストログ修道院~
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本日はブラックツーリズムの詰め合わせでございます。割とハードな内容がありますので、覚悟してかかってくださいませ。
まず、サラエボ市内を歩いて、ある場所に向かいます。
途中、人々の営みを感じる街中でありながら、気付く事があります。
そう、建物が…銃撃の痕だらけ…。
たった20年前まで、この地はユーゴスラヴィア紛争、とりわけ厳しかったボスニア紛争の激戦地だったのですね。
自分の備忘も兼ねて、ユーゴ紛争について簡単におさらい(私の付け焼刃サマリーなので、ご指摘あれば宜しくお願いします)↓
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・ユーゴスラヴィア連邦の一員であったボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴ解体(クロアチア独立等)の動きを受け、1992年3月に独立を宣言。
・ボスニアはそもそも、ボスニャク人(ムスリム)が4割・セルビア人(正教徒)が3割・クロアチア人(正教徒)が2割と、ほぼ均衡するような形で異なる民族が共存していたが、独立を求めていたのは、このうち、ボスニャク人やクロアチア人だった。
・ゆえに独立に反発するセルビア人と、セルビア人を無視する形で独立を進めたボスニャク人との民族間対立は劇的に悪化、独立宣言翌月には武力衝突が発生する事態へ(クロアチア人は独立支持派ではあったものの、ボスニャク人と一枚岩ではなかった)。
・ユーゴ解体を避けたいユーゴ連邦軍はセルビア人を支持し、ボスニャク人勢力と衝突、ボスニア全土で、両陣営による空爆や民族浄化といった、おぞましく、激しい内戦が繰り広げられることとなった。
・激しい戦闘は3年半続き、1995年10月に漸く和平合意がなされた。
・この内紛は死者20万人、避難民200万人を出したとされる。
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途中、公園を通りましたが、記念碑と銅像がありました。
銅像の横には、看板があり、英語の記載もあったので読んでみると…
スレブレニツァ(後ほど書きますが、ボスニア紛争でボスニャク人への大虐殺のあった村の名前)で、セルビア軍に捕まったボスニャク人の息子ネルミンに、降伏するよう呼びかける父、ラモの様子だそうです。後にこの親子は、2008年に虐殺の跡地から遺骨が見つかったそうです。
誰かがこの姿をみて、記憶に残し、この銅像を建てる事を考えたのでしょう。
胸が痛みます。
記念碑の方には「ボスニア紛争で命を落とした子供たちの為に」と記載があります。子供の名前と生年、没年が刻まれています。よくみると、みんな私と同年代です。生きていたら、同級生だった子も沢山いました。黙祷。
そして、こちらは市内の道端に点在する「サラエボのバラ」。なんだと思いますか?
ここは市民が砲撃によって命を落とした場所で、えぐれたアスファルトに赤い樹脂を流し込んで固めたものです。その広がる赤いさまから、「サラエボのバラ」と呼ぶのだそうです。
樹脂で固めていないけれど、恐らくここも砲撃があったのだな、とわかる様なえぐれた場所が他にも何箇所もありました。
朝から行くべき場所ではないと思いつつも、こちらのギャラリーにちらりと足を運びました。(つきあってくれたA家ありがとう。母に話したら「またそんな場所行ったの!?」と呆れていました。)
ボスニア紛争では「民族浄化」と呼ばれる、おぞましい大量虐殺がありました。こちらのパネルはボスニアで虐殺が起きた場所を示す地図。
特にこのギャラリーのテーマになっている、スレブレニツァという場所で起きたジェノサイドは、世界的にも有名で、それに関するフォトギャラリーということで、腹をくくってみて来ました。(Wikiにも項目があるので、気になる方はどうぞ。「スレブレニツァの虐殺」)
写真は禁止なので、入口のパネルのみ。
大量のビニールシートに包まれた、埋葬を待つ夥しい数の遺体(↑のパネルの写真)。
埋葬する為に集められたシャベルの山。
亡くなった方の名前が延々と刻まれたパネル。恐らく一家全滅だったのだろうということは、同じ苗字の方の名前が長く続いているのを見て、推測する。
代理戦争に興じる国際社会を揶揄する風刺ポスター。
いたるところから煙のあがる廃墟の中、寝かされている赤ちゃん。
砲弾が弧を描いて着弾し、爆発する映像。
なんというか、カラーの映像が残っている、ということに衝撃を受けてしまった。
人間は、あやまちを繰り返すおろかな生き物だなあ。
このギャラリーでは、こちらのポスターに胸をわしづかみにされたので、購入。
UN - United Nothing
と書かれています。国連からPKO軍として派遣されたオランダ兵が壁に落書きしたもの、と言われていますが、これ以上の皮肉があるでしょうか。
激戦地へ派遣され、その場にいるだけで何もできない。彼は何を思ってこれを書いたのでしょう。
そして、気持ちが落ち込んだあとに向かった場所は、こちらの黄色い建物、”Holiday Inn Hotel"。
今Holiday Hotelという名前になっていますが、ボスニア紛争時、市内で唯一営業を続けたホテルで、多くの報道記者がこちらのホテルに滞在し、ボスニア紛争の現状を世界中に発信していたそうです。
中は割とにぎわっていました。我々はコーヒーを1杯いただく。
夫にLINE電話で繋いでみたら、「どこおんねん!」とつっこまれました笑。
このホテルの前の、この大通りも大変有名で、別名”スナイパー通り”と呼ばれていました。
何故かというと、ボスニア紛争時に、両陣営が、この通りを通るものは老若男女動くものはなんでも片っ端から狙撃していたからだそうです。(尚、水を汲んだりする為に、この通りを通る必要がある人は多かったのだそう。)
それから、少し離れた場所にある、こちらは広大なお墓。
真新しい白い墓石の数々。刻まれた没年は、のきなみボスニア紛争の起きていた1992年~1995年です。
中には、5人家族全員同じ没年が刻まれた並んだ墓石も。
さすがの我々も、閉口。またしても合掌、黙祷。
それから、サラエボで最後に訪れたのが、こちらの博物館。
http://tunelspasa.ba/#Dobrodo%C5%A1li
サラエボ・トンネル博物館
博物館の壁も見事な蜂の巣状態ですね。
サラエボはボスニア紛争時に、敵陣営に完全に包囲され、物流ルートのほぼ全てを遮断されました。そんな状況下、医療物資や食料品、負傷者や病人の輸送の為に、秘密裏に作られたのが、サラエボ郊外から、サラエボ市内へ抜けるこの約800mのトンネルでした。
どれくらい包囲されていたかというと、パネルによればこんな感じ。詰んでます、四面楚歌。
赤い部分は全て敵、敵のいないところは山です。
今はたった数mしか残っていませんが、トンネルの内部にも入ることができます。
映像をみると、雨水がしたたり、とても快適にはみえませんが、サラエボ市内に残された人々の、命綱の役目を果たしていたわけですね。
博物館の敷地には"The Place that ended 20th Century(20世紀を終えた場所)”と書かれた看板がありました。
20世紀を終えた場所をあとにし、次の目的地へ向かいます。
途中、いたるところに”Don't Foreget" / "Never Forget"といった標語が書かれた壁を見かけました。
ボスニア内戦は、まだ歴史に出来ていない、消化しきれていない、今も人の胸に生きている出来事なのだと改めて実感。
移動中のどんな小さな村の家の壁にも、銃撃の痕が残っていた事は、きっと忘れません。
さて、気持ちを切り替えて次の目的地はモスタル。サラエボから南へ120kmほど下った場所にあります。
モスタルには世界遺産の有名な橋、ネレトヴァ川に架かる「スタリ・モスト(古い橋)」があります。
最近ではクロアチアのドブロブニクなんかからも、1日ツアーが出ているので、訪れる日本人が増えているそうです。
この橋は、残念ながらボスニア内戦の時に破壊され、2004年になって再建されたもの。
やはり、モスタルにも悲しい歴史がありました。
ボスニア紛争前、モスタルは各民族がモザイクのように入り乱れて暮らす街だったそうです。
モスタルは紛争中、18ヶ月の間包囲状態となり、両陣営がそれぞれ教会やモスクを破壊しあう激しい戦闘が続きました。
そして今では、橋をはさんで片側がキリスト教徒、片側がムスリムの住む街、という風に東西に分断されて暮らすようになってしまったそうです。
10年前にモスタルを訪れた方に「当時はまだ暗くて、橋も再建されておらず、とても観光地と呼べる場所ではなかった」と言われたので、モスタルの街と人々が、一体どれほどの悲しみや憎しみを飲み込んで、今この場所で、隣りあわせで暮らし、復興を遂げてきたのだろうと、こみ上げるものがありました。
モスタルの街中の壁にも書いてありました。「スレブレニツアを忘れない」と。
そして今回のお宿。
Mちゃんが選んでくれたお宿がね、最高にね、可愛いんですよ!!!
お人形が部屋を出たところに座っているんですが、等身大サイズなので、けっこう怖い…。ドアあけるといるので、毎度「ひぇっ」ってなってました。
博物館もかねたこのお宿。オスマン帝国時代からの名家のおうちだった場所らしいのですが、奇跡的にもボスニア紛争中で被害をほとんどうけず、こうして残ってくれていました。
Webもあったよ。
http://www.muslibegovichouse.com/
お部屋の内装も可愛いよー。
荷物を置いて、再び出かけます。
スタリモスト以外にも可愛い橋があるので、行かれる方はぜひお散歩を。
移動に疲れた我々は橋を眺める特等席を陣取って、くれゆく夕日を眺めることにしました。日没後のライトアップされた橋も素敵でした。
夕食は、ボスニアのお肉をもりもり食べました。こんなにTHE・肉!なのに、意外とすんなり全部食べたし、胃もたれもしなかった。ビールはモスタルのビール、モスタルスキェを頂きました。
そんな感じでサラエボとモスタルな長い1日終了。
この晩は、あまりにも胸がいっぱいで、サラエボで見たもの、モスタルで感じたもの、道中で気付いたこと等々、夫と夜1時間くらい長電話してしまった(日本は早朝だったのに、付き合ってくれた夫ありがとう)。
人道的介入ってなんだろうかとか、なんか色々頭をぐるぐる回る夜でした。
次回はまた移動日ですよ!これからはライトな部分のみ!
バルカン旅行記①~世界遺産の旧市街、モンテネグロの街コトル~
バルカン旅行記②~魅惑のボスニア・ヘルツェゴビナ、首都サラエボへ~
バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~(このページ)
バルカン旅行記④~メジュゴリエ、ステチュツィ、そしてモンテネグロへの帰還~
バルカン旅行記⑤~夢のスヴェティ・ステファンとオストログ修道院~
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