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2024年05月17日
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オデッサ女子旅その2~ワイナリーで飲んだくれ!~

2017年11月22日
はい、オデッサ市内から移動しますよ~!



オデッサから車で1時間半ほどの、Zatokaという町へ向かいます。
 
このロケーション、すごくないですか!?前も後ろも海!!!人生初です。





今回は部屋から海につながる貸しアパートにしました。うひょー!




しかも大きなわんこがいます。





でも「黒海」というだけあって、海はちょっと黒いです。私の↑の写真だと、フィルターかかっているので真っ青なトロピカルな海に見えますが、本当はこんなです。






さあ、今回の旅の一番の目的地へ向かいます。
宿の人にタクシーを呼びたいと言うと、「タクシーなんてこの辺走ってないよ」と。
どうしたものかと困っていたら、「この人といきな」と謎のおじさん&かなり年季の入ったラーダのコンビを紹介されました。

わあ~、もしかして…私と同い年くらいなんじゃないかなあ、この車…。うふふ。

しかもおじさんは浜辺でお魚の干物を売るお仕事をしていて、車の中もほんのりとお魚の香り…。
シートもお尻に心なしか、はみ出ちゃったスプリングの感触が…。


でもまあ、背に腹は替えられません。乗ります!!(お金は勿論払ったよ)





30分くらい、ブドウ畑や小さな村を突っ走ると、目的の場所に着きます。


そう!!
ウクライナでいわずと知れた有名ワイナリー、SHABOです!

SHABO
http://shabo.ua/en/sp/cultural-wine-center


何もない場所に突然現れる立派な建物。広大!!!

かねてから予約していたテイスティングコースへと進みマス。


想像以上の規模…そして綺麗。



ガイドさんが色々と説明してくれますが、ロシア語でよくわかりませんでした。
(余談、オデッサはウクライナ人が過半数を占める街なのに、人々の話す言語はほとんどの人がロシア語という、少々特殊な環境です。)
露語堪能なKちゃんが一緒でしたが、やはり専門用語の多い文章は翻訳が難しそうでした。
でも飲むのが目的だから、気にしない我々。

小さなブドウ畑も敷地内に。


発酵など、ワイン作りの工程の説明のあとは、敷地内にある博物館に連れていかれます。これまた立派!



入口にはお酒の神様、バッカスの大きな銅像が。




このオデッサ周辺地域は、どうやら紀元前からワイン作りの盛んだった地域のようで、一時期オスマン帝国支配を経て、後にやってきたスイス人が現在のワイナリーを創設したようです。シャボーという地名は、オスマン時代のトルコ語の地名”シャバーグ”の発音を困難に感じたスイス人がなまってシャボーと言ったのが定着したのだそうです。

当時の地下貯蔵庫なんかも見学できます。遠いスイスから移動してきた人々の当時そのままの持参品(雑貨、服等)なんかも展示されていました。




あと、なんだかよくわからないけど、「ぶどうをイメージした噴水ショー」なるものも見せられました。足元がぬれました。サンダルでよかった。




さあ、お待ちかねのテイスティングタイム!シャボーはどちらかといえば、白なイメージですが、満遍なく赤やスパークリング、デザートワインなんかもトライさせてくれます。

でもロシア語で何いってるかわかんなーい!笑。酔ってるから尚わかんなーい!
ただ出されたものを飲み続ける私たち。ほろ酔いを通り越して、ちょっと飲みすぎモードに入ってきています。

SHABOのワインはキエフ市内でも流通しているので、割と主要銘柄は買えますが、テイスティングは珍しいものを色々飲ませてくれるので楽しい。


ツアーの最後は、シャボーのショップで終わるのですが、同じツアーに参加していたおばさんに声をかけられたので、立ち話していると、なんとおばさんの息子は日本に留学中だとのこと。
盛り上がっていたら、一緒に夕飯食べないかとお誘い頂いて、ワイナリーの向かいにあったレストランへ急遽向かう事に。


おばちゃんは三人の女子の私生活について、おせっかいおばちゃんさながら、聞きだしていきます。旦那さんはそれを愉快そうに見守っています。
私は結婚しているのに別居だと言ったら「そんなの駄目よ!」とお説教されるも、最後には「私たちが、愛する人と毎日一緒にいられますように」というトースト(乾杯の一言)をしてくれて、酔いも回ったせいか、私はじんわりと涙をこらえながら、有り難くワインを飲み干しました。


そしておばちゃんの趣味は写真。ディナーの最後は、おばちゃんの指定するポーズなどで、とにかく写真を撮られるセッションに突入。(宣伝材料用写真か!とつっこみたくなるほど、3人がそれぞれなかなか恥ずかしいポーズをさせられます。)

あとでFacebook経由でその時撮った写真を送ってもらいましたが、お酒の力も相まって、とんでもなくハイテンションな姿で写っていました…ちょっと恥ずかしい…。


そんなこんなで二日目のオデッサの夜は更けていくのでした…。



****************






翌日、最後の目的地に向かうべく、車を走らせます。私のわがままで、要塞へと!
ビルホロド・ドニストロヴスキー要塞といいます。

こちらが要塞の入口。多分見えないと思いますが、お城の紋章のライオンさんの後ろに葡萄が描かれていて、ご当地感出ててすごく気に入りました。



じゃーん!!!
立派!!ウクライナで、こんなにきちんとメンテナンスされている観光地って実はあんまりないんですよ笑。すごい。
 

黒海が見えます。

この要塞は13~14世紀ごろ、モルダヴィアの時代に建てられたもので、オスマン帝国などの敵に備えるべく、活躍した場所のようです。
露土戦争でも、この要塞はとったりとられたりと、なかなか注目の場所であったようです。
(つくづく、このあたりの歴史には弱いです。お勉強せねば。)


大変ロマンあふれる場所でした。



お約束の拷問部屋もありましたが、私はもう色んな城で見て食傷気味なので、二人のガールズに任せて、一人でのんびり。



要塞をみて、オデッサ旅大体完了。車に乗り込み、オデッサ市内へと向かいます。


私はうっかり翌月曜の朝からの出張が決まってしまい、夜行列車で帰る二人とは違う、鈍行列車のチケットを急遽購入したのですが…。

お値段約400円、私の長距離列車至上、最安値を更新です…。


格安寝台列車はプラツカルタと呼ばれるのですが、実は私はじめてでした。
私は2段目だったのですが、この狭さ、頭をあげられないくらいなんですよ。
 
そして暑い(クーラーなし)、おじさんたちの汗くさい、あと酔っ払いも酒くさい。
これはなかなか酷いです笑。自分がかつてバックパッカーで、潔癖からはほど遠い性格で良かったなあとこのとき思いました。





ひざを立てたら、ギリギリぶつかるくらいの高さしかマイスペースがありません。
 
その上、こんな電車に1人で乗ってるアジア系女子が珍しかったのでしょう、10分毎に車掌さんがやってきて、私の下の段で寝ているおじさんのことを、「こいつはお前の旦那か?」と聞いてきます。


そいつはどうみても他人だろ!!!!!!


何回違うと言っても、戻ってくる度にまた、「こいつはお前の旦那か?」と聞いてくるのです。
20回くらい、HET!!!!(二エット、ロシア語でNO)を繰り返しましたが、ニヤニヤしながら、質問をやめず、疲れた私は無視を決め込むことにしました。


寝たふりをしても、ゆさぶって起こしてくる…。イヤホンして音楽聞いて無視しても、ゆさぶって声かけてくる…。



ああああああああ!!!!



車掌さんは、通りがかりの乗客たちに、「この子、日本人なんだ」といちいち私の紹介をしてくれます。
そして、「いい仕事紹介してくれない?」などと、もはや何がなんだか分からないことばかり言ってきます。




発狂しそうになる復路でした…。
(夜が更けた頃には、車掌さんも忙しくなったようで、コンパートメントにくる頻度がぐっとさがり、楽になりました。)






以上、オデッサ女子旅記録終わり!
この計画に快く賛同し、予約を手伝ってくれたCさん、Kちゃん、本当にありがとう。
めちゃくちゃ楽しい旅になりました。ひと夏の思い出です。

また何か新しい企画立てましょう♪



オデッサ女子旅その1~オデッサ市内観光~








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オデッサ女子旅その1~オデッサ市内観光~

2017年11月15日
前々から夢見ていた企画があり、それに賛同してくれた心優しき女子2名とともに、久々に「黒海の真珠」と呼ばれる、オデッサを訪問してきました。


と言うわけで、時間がたってしまいましたが、9月に実行した飲んだくれオデッサ女子旅の記録をここに残しておこうと思います。
Cさん&Kちゃん、本当にありがとう。この記載/写真は消してくれ、というのがあれば連絡ください笑。


***


さあさ、旅の始まりです。金曜日の夜、全く働く業界の違う、年齢もバラバラの3人のガールズが、仕事後すっぴんかつほぼパジャマみたいな格好で旅客駅前集合です。



はいはい、オデッサ行き!ありましたー。


こちらが我らの乗る電車。毎度おなじみウクライナカラーです。

4人部屋のコンパートメントを貸しきって、出発です。CさんがDLしてきたミュージカル「マンマミーア!」をかけながら、わいわいがやがや、たまに歌いながら、仕事、家族、人間関係、恋?…ガールズトークです。楽しい!!(TдT)!!こういうの長らくやってなかった!!



そして、夜中に酔っ払いたちは疲れ果てて寝ました。朝の到着も早いしね。




***



はい、朝6時半のオデッサ駅。キエフから南に約450kmです。
 
朝日がまぶしい…浮かび上がるは3人のひどい顔…(内、1人は二日酔いで瀕死)。早くも大丈夫かなー?って感じのスタートです笑。


駅の正面は立派でした。
 

朝イチで借りてたレンタカーをゲットして、早速最初の目的地へ向かいます!!


 
なんて綺麗な朝焼け…。身に沁みる…。


 
最初の目的地は海辺のカフェ!まだ他は何もあいてないから、とりあえずコーヒーを飲みに。


2016年に出来たばかりのカフェはこちら↓

Terrace. Sea View
http://terraceodessa.com/



尚、インスタ映えの定義を間違えた写真がこちら。※朝7時前です。





そして次の目的地は朝ごはん!オデッサといえばここ!というカフェに向かいます。


Kompot(コンポート)
http://www.kompot.ua/en/
チェーン店で、オデッサにも複数店舗、最近はキエフにも店舗があるようです。

可愛い店内。
 
我々はオデッサヤギのチーズをふんだんに使ったオムレツを頂きました。ボリュームたっぷりでした。



それから、ぶらぶらとオデッサの街を歩きます。あまり大きな街ではないですが、とても古くて歴史を感じます。プーシキンやゴーゴリもこの街に滞在していたのだそう。

まずは、パサージュと呼ばれる場所。


まあ、何ってことはないんですけど、美しいデザインの建物が並んだ小道です。
 



適当にぶらぶら歩いたりします。なんていいお天気なんだろう。
こちらは救世主顕栄大聖堂。
 



青空にはえますねー。こちらは、セント・ポール・ルター協会。




それから、前回蚤の市めぐりをした際にある方に、「オデッサの蚤の市も規模が大きいらしい」と聞いて、少し離れていますが、蚤の市に立ち寄ります。

ついつい古本に目がいってしまう。


延々と続く蚤の市。特にペット市が圧巻でした。
 
両側に並ぶあらゆる動物!季節的に少し成長した子犬や子猫がいっぱいいて、私はめろめろだったのですが、生きてるうさぎとうさぎの肉(皮をはいだもの)、生きてる鳥と鶏肉を並べて置かれる、みたいなのがどうしても駄目だったKちゃんは、小さな悲鳴を上げながら下を向いたり上を向いたりしながら、目に入れないように歩いていました。



そして、オデッサの一番の観光名所まで戻ってきました。ここ!!

そう、ポチョムキン階段です。「戦艦ポチョムキン」という白黒映画で乳母車を突き落とすシーンが有名です。

気になる方は下記過去記事の項目③戦艦ポチョムキンをご参照:
ウクライナを舞台にした映画たち


階段のところには、こんなプレートも。



ちなみに、上から見ると踊り場しか見えない、下から見ると踊り場が見えず段差部分しか見えない、という面白い設計になっています。(私の写真だとわかりにくいけど。)




階段の上には、オデッサの町を切り開いた、エカテリーナ2世の銅像が。


ちなみにオデッサは横浜と姉妹都市なんですよ!



そんな感じで、オデッサ市内観光終了。車を飛ばして、次の目的地へ向かいます。オデッサから更に南へ…!(次回へ)


オデッサ女子旅その2~ワイナリーで飲んだくれ!~




オデッサは2回目なのですが、前回の訪問記(夫が書きました)もご参考までに:
風は南から:「黒海の真珠」オデッサへ〜その1〜
風は南から:「黒海の真珠」オデッサへ〜その2〜






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バルカン旅行記⑤~夢のスヴェティ・ステファンとオストログ修道院~

2017年11月07日
さて、終わらなかったバルカン旅行記、今度こそラストです。



モンテネグロといえば、な憧れの場所へ向かいます。




そう!!!Aman  Sveti Stefanで有名な、Sveti Stefan島です。


見えてきたー!!
 


Sveti Stefanは、元々漁村として人が住み始めた村だったそうですが、今は島全体が高級リゾートとなっています。ここ30年はアマンリゾートが賃借契約しています。
昔は潮が引いた時にだけ、陸続きとなる島でしたが、今はいつでも渡れる道が作られています。
 


宿泊客とレストラン利用客以外は島に入れない、という事で、我々はレストランを予約していました。(一応宿泊も調べてみたけど、ハイシーズンで、一番お安いお部屋でも、気が遠くなるお値段だったのであえなく却下。)島の入口はシック。中も小さな小道に、緑のツタが生い茂って、本当に美しいです。



振り返ると海が見えたり。



念願のお食事。島には二つレストランがあるものの、ランチをやっているのは片方のみです。お値段はリーズナブルな範囲でした。(恐れていたけど。)そして、とても美味しかったです。



ちなみにトイレが見つけ出せなくて迷ったのですが、トイレは一軒家になっていて、広くて素敵で、いい香りがして、「もうここに住みたい!!」とMちゃんが言い出したほどでした笑。


この小さな島には教会が4つ(確か)もあるそうです。島はVIP用なので、全域を自由に歩く事はできず、ここから先は入っちゃダメ、と言われますので、許された場所にある教会をちらりとみてきました。かわいらしいです。




ちなみに、このSveti Stefanと本土を繋ぐ小道をはさんで、片側は庶民ビーチ、片側は高級ビーチです。

高級ビーチのビーチセット、100€という看板をみて、格差社会の縮図だなあ、などと思いながら、お腹いっぱいの我々は、この地を後にしたのでした。笑。



それから、帰りにはコトルの手前の、ブドヴァという街へ寄ることにしました。
お、これは我らの愛する要塞の町ですね。
 


このブドヴァがまた、とても素敵だった。ドブロブニクやコトルと似た雰囲気で、赤い屋根の海を臨む城塞の街です。
 


正直コトルよりも好きだった。人は少ないけど、美しさは格別。
 
とても気に入りました。城砦好きには楽しい町です。人にもお勧めしたいです。



港では、お魚屋さんが新鮮なお魚を売ってましたよ。







そうしてまた、我々の愛するコテージに戻ってきました。またスイミングして(D氏はシュノーケリングにいそしむ)、ビール飲んでのんびりしました。
夕暮れとモンテネグロ・ビール!そして、南欧限定プリングルス、初めて見たー!ローズマリー&オリーブオイル味ですって!



D氏が見つけた小魚↓






夜は近場のレストランに行ったのですが、外灯ゼロ、道、暗っ!!携帯のライトをかざしながら3人で歩きます。車はしかもハイスピードでつっこんでくる。



そして、なんとかたどり着いたレストランでは、出てくる量を完全に見誤って、食べ過ぎで死にかけるという出来事がありました。

この写真では多分伝わらないのですが、イカ墨リゾットの後ろにある、大量の魚介のフリッターの下には、トマトソースベースのこれまた大量の魚介リゾットが隠されているのです。フリッターにリゾット2人前がついてくるなんて想像しなかった我々は、単品でもリゾットを頼み、加えて巨大なサラダも2皿も頼んでしまい、完全に過剰…。お腹パンパンになっても、半分も減ってなかった…笑。お店によって量が違いすぎて、なかなか難しいものだなあと痛感。



食べすぎで疲れて帰宅、即就寝。おやすみなさーい。



*********



翌日は、また海を離れて車で山へ向かいます。行き先はオストログ修道院です。

山の中のカフェでコーヒーを一杯。
お店はランチの仕込中だったのですが、よく見ると、運ばれている子羊…(皮は剥いだあと…)。



途中、美しい雲海が見えました。


雲海の横で西瓜も売ってました。売れるのかなあ。




恐怖のぐねぐねした細い山道を越えて、ようやくオストログ修道院が見えてきました。断崖絶壁に建てられている白い建物が、それです。



このオストログ修道院、17世紀前半に聖ヴァシリエという修道士によって建てられ、モンテネグロ最大の聖地と言われているそうです。毎年10万人が訪れるとか。


車では途中までしか行けません。たどり着くには山道を登ります…。

汗をかきかき、ぜえはあ息も荒く…体力の衰えを感じる30代が3人…。しかもこの階段がすごい滑りやすいんだな…。行かれる方は、ちゃんとした靴で行こうね。あと、一応聖地だから、手足や頭を隠すものを準備してね。


さて、漸くたどり着きました。確かに、こんな奥地とは思えないほどの人が、頂上にはいました。
 


イコンやカレンダー等が売っているショップも入っていました。太陽がギラギラ照り付けてきます。汗だく。




この岩壁に建つのは、聖十字架教会です。ここに入るには、長蛇の列が出てきています。我々も小一時間待ちました。しかも灼熱の下。夏に行かれる方はご注意ください。
 


漸く中に入ると、景色はこんな感じ。ひゃー、絶景!
 


また、生神女進堂教会の中には、この修道院を建てた、聖ヴァシリエの遺体が安置されており、巡礼に来た人々は、その棺にキスをして祈ります。
1時間並んだ我々は疲れ果てて、10人入るのがやっとというサイズの小さな祠。特に正教徒でもないしいいか、と棺にもキスをせず、出てきたのでした。(写真撮影禁止なので、気になる人は自分でみにいってね!)

他にも美しいフレスコ画やイコンが飾られていました。写真が撮れなくて残念。





さあ、山をくだります。すごい道がばかり…。私は完全にびびってD氏に運転丸投げ。更にびびりのMちゃんは絶叫しながら、絶壁の道を走ります。ギリギリすれ違えるかどうか、部分的には完全に1台しか通れないような、落ちたら死ぬ道が続きます…。



こんな細い、ヘアピンカーブのようなぐねぐね山道が続く中、クロアチアナンバーの暴走車が、追い越し禁止斜線で我々を追い越し、我々3人は大ブーイングでした。
その後同じ車両が、なんと更に2車両一気抜きしたので、「あの車ほんとやばいね、警察に捕まってしまえ!!」と言った瞬間、後ろから大音量でパトカーのサイレンが鳴り響き、あれよあれよと言う間に例のクロアチア車はつかまったので、私とMちゃんは「「ざまあー!」」とハモり、そのあまりの綺麗なハモり具合に、また3人で大笑いしたのでした。



山を下って、お昼はムール貝!コトル湾では、牡蠣やムール貝の養殖が盛んで、車で走っていると、いたるところに看板や、養殖場を見かけていたのです。



3人で黙々と早食い競争。私は堂々の2位でした。笑。



またコテージに戻り、のんびり泳ぎ、D氏はちょっと仕事をして(私はしない)、穏やかな夕方を過ごします。



最終日の夜は、コトルの小奇麗なレストランで魚介。
「インスタ映え!」と言いながら、お写真を撮る笑。





*************




そして最終日はティヴァトの町を探検。
訪れたのは、"Montenegro Porto"と呼ばれるエリア。


どうやらモナコみたいな場所を目指しているようです。確かに高級そうな個人所有のクルーザーがたくさん泊っていて、ヤシの木がうえられていたり、おしゃれなカフェがあったりします。
 


折角だから日に焼けた体を癒しに、スパにいこう!ということで、女子は順番交代でフェイシャルのスパを予約。スパはこちら↓
http://puravida-spa.com/


Mちゃんがスパでくつろいでいる間、私はD氏につきあってもらって、こちらの博物館にやってきました。
https://www.portomontenegro.com/en/village/museum




外には鯨の親子のような潜水艦が二隻、展示されています。
 


ドックが改築されて、博物館になっています。屋内には、色んな部品や、小型の潜水艦等が展示されていて、なかなか興味深かったです。お好きな方には楽しいと思います。






ランチはイタリアンを頂きました。さすがイタリアの支配下にあったこともあるだけに、美味しいです、とても。最後の魚介堪能チャンスと思って、勿論魚介のメニューを選びます。




ご飯を食べて、スーパーをちら見して、ティヴァト空港へ向かいます。


ティヴァト空港、あまりの規模の小ささです。まず1階建てだし、パスポートコントロール越えた先には、カフェもなくて、トイレが一つ、免税店が一つ、人数に見合わない少ないベンチ、空調なしときました。私は1時間ほど、じわりとおでこに汗をかきながら、地べたに座って待ちました。辛かったです。

しかも行き先が、同じ時間帯に待っているフライトがサンクト・ペテルブルク、モスクワ、ミンスク、キエフだったので、またしても「鉄のカーテン最南端…!」と思い知るのでした。

来た時同様、滑走路を歩いて、タラップまで移動。それではグッバイ、モンテネグロ!






はー、しかし最高の夏休みでした。願わくば夫も居て欲しかったけど、またの機会に二人で再訪したいと思います。バルカン半島はもっと開拓したいですからね、ぜひとも。

そんなこんなのバルカン旅行記でした。気付いたら旅から2ヶ月もたってしまってたわ。お付き合い有難う御座いました。


そして重ね重ね、素晴らしいプランニングと長い道のりの運転をしてくれたA家にお礼を。
ストレスフリーのこんなに楽しい旅になったのは、二人のおかげです。



これにてバルカン旅行記終わり。



◆バルカン旅行記
バルカン旅行記①~世界遺産の旧市街、モンテネグロの街コトル~
バルカン旅行記②~魅惑のボスニア・ヘルツェゴビナ、首都サラエボへ~
バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~
バルカン旅行記④~メジュゴリエ、ステチュツィ、そしてモンテネグロへの帰還~
バルカン旅行記⑤~夢のスヴェティ・ステファンとオストログ修道院~(このページ)





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バルカン旅行記④~メジュゴリエ、ステチュツィ、そしてモンテネグロへの帰還~

2017年11月01日

さて、ボスニア3日目。
モスタルの橋をもう一度みてから、次の町へ出発です。


次に目指すは!メジュゴリエという町です。



この町、何が特殊かというと…。
「1981年6月24日から今日まで、毎日マリア様が出現していると主張する人がいる町」なのです。
6人の青少年が聖母マリアを目撃し、以降、毎日彼らの前に現れているということのようです。
(Wiki項目もあるので、詳しく知りたい方はそちらをどうぞ→「メジュゴリエの聖母」)

ちなみにマリア様が人々の前にその姿を見せることを、「顕現(けんげん)」と呼ぶのだそうです。マリア様は世界各地で姿を現していて、それが本物である場合、カトリック教会と教皇庁が公認するのですが、メジュゴリエの聖母出現は、疑問視する声もあり、正式に公認されていないそうです。(今調査団が調査中とか。)


ふうん…?
無宗教の私、なんともいえない気持ちでメジュゴリエについて調べます。



そして、何もない場所に突如現れる綺麗に舗装された道、人・人・人、スピーカーから聞こえる祈り、そして大きな敷地の教会…。



「これが顕現マネー…」と呟く我々。
 


新しそうな教会。ちょうどミサをやっていましたが、色んな言語で同時通訳されていました。
無料駐車場には、色んな国のナンバーをつけた車と、たくさんの観光バスが停まっていて、本当に不思議な空間。



ショップはとにかく宗教関連雑貨のお店が多かったです。



しかしまあ…無宗教の私は、なんともいえない、しょっぱい顔つきでこの町を通り過ぎたのでした。
わからないよ…人を救うために神がいるなら、どうしてユーゴ紛争は起きたのだろうね。
(信仰をお持ちの方を否定するつもりはないので、あしからず。)




次に、2016年に世界遺産になったばかりという、「ステチュツィ」へと向かいます。

うっかり一度通り過ぎました。こちらの場所のようです。



ステチュツィとは、中世にボスニア王国の領土であった場所において見られる墓石群のことで、クロアチアやモンテネグロ、セルビア、ボスニア等にまたがって存在しているそうです。(地名ではなくて、Statueと同じ単語を語源とする墓標自体を意味する言葉と勝手に理解。)

Wikiによれば、色々謎はあるものの、11世紀~15世紀頃まで作られていたそうです。

この墓標に刻まれたなんとも愛嬌のある絵たち。ふむ、これらはとても私の好みです。


馬や武器や、人々の営みを感じられる絵が刻まれています。



でもまあ、長居する場所でもないので、さくっとこの場所も後にして、出発。





ボスニアを出国すべく、また疾走。
ボスニア域内で気付いたのは、何度も見かけるこの国旗と看板。一瞬ロシア?と思う色合いなのは、色々調べてみて納得したのでした。

ボスニア・ヘルツェゴビナは、実はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、スルプスカ共和国という二つの国からなる連邦国家なんですね。要は、ムスリム系のボスニャク人が多く住むボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア系キリスト教徒が多く住むスルプスカ共和国、という住み分け。領土比率は丁度半分ずつです。

そして、この2つの国のボーダーラインがなんと入り組んでいることか(Wikiの地図のリンク張っておきます)。いかに民族が混じって暮らしてきたかという証明であったような気がします。それゆえ、走っていると、何度もスルプスカの領土を出たり入ったりすることになったのでした。

あと、もひとつすごいなーと思ったのは、スルプスカ共和国のスペルが驚異の子音の連続だということ笑。キリル文字だと、"Српска"、アルファベットだと、"Srpska"です。どうやって発音したらいーの!笑。



国境って、連邦って、民族って、宗教って…などと答えのないまとまらない考えを頭のなかでめぐらせながら、行きと同じ国境の検問を通って、ボスニア出国です!




海が見えてきた!モンテネグロに戻ってきました。ここからはもう暗い話はなし!



ボスニアのお肉は美味しかったけれど、海鮮に飢えていたので、めちゃくちゃお昼ご飯を我慢して、ヘルツエグ・ノビという海辺の町まで戻ってきて海鮮。思い出しても美味しかったなあああ。




そして、遅いお昼のあと、漸くコトルまで戻ってきました。今回のお宿は、コトルの喧騒からは少し離れたコテージ。部屋からダイレクトに海につながっている素晴らしいお宿!!寝室から見えるアドリア海!ベランダに広がるオーシャンビュー!




Mちゃんの采配に脱帽です。階段を降りると海!




海から見た我々のコテージはこんな感じ(A家の防水カメラ優秀!)。両手を挙げてるのは、多分私。笑。
 


日もじわじわ落ちてきて、夕暮れの中、ひと泳ぎ。モンテネグロビールいただきます!




今回の旅では、毎日夕日を見守る事ができて、すごく穏やかな気持ちで過ごす事ができました。
この晩はお昼も遅かったので、スーパーでちょこちょこ買い込んで、家でのんびりと過ごしました。


あと、近くのオープンしたてのカフェで、モンテネグロワインもいただいたよ。
 

コトル湾の夜景はこんな感じでした。



ほろ酔いの素敵な気分で就寝。





*****



さて、翌日はコトル湾のクルーズに行くことに。3時間で30ユーロです。
湾にはかなり大きなクルーザーも停泊していました。勿論我々が乗るのは、小さな船です。





さあ、出発!!
んわあ、すごい揺れ!美しい山並みと海なのに、傾いた写真しかとれなーい!我々の髪の毛も相当すごい感じに逆立ってます!





まず立ち寄ったのは、冷戦時代に潜水艦のドックとして使われていた場所。カモフラージュされています。ユーゴスラビアが、鉄のカーテン最南端であったことを思い出させられます。


ドック内から外をみた時の様子。隠れ家ってなんかわくわくしますね。


ちなみに、世界各国に捨て置かれた潜水艦ドックはたくさんあるようです。
調べたらウクライナにもあった。興味あり。 気になる方はこちらのサイトを↓
10 Abandoned Submarines Bases & Sub Pens of the World




それから、お次はダイバーズスポット、難破船。ダイビングもいいですねえ。





そして、湾を出て、外海に出ます!第一次世界大戦にて監獄として使われていた島を横目に通り過ぎます。うーん、ここには収監されたくない!!(いや、ここに限らず、どこにも収監されたくないけども)





そうしてやってきたのが、青の洞窟。言葉は要りませんよね?写真だけ載せときます。


 






洞窟でひと泳ぎしたのち、湾のほうへ戻ってきます。水はめちゃくちゃ冷たいです。
でも透き通っていて、奥深いところで泳ぐ魚の姿も見えます。




ババババと音がするので見上げたら、プロペラ機が飛んでいました。
「これが本当のアドリア海の飛行艇!」と、「紅の豚」を思い出しながら感動する我々。





そして、次にコトル湾に浮かぶ小島に建てられた教会へと向かいます。



岩礁のマリア教会というそうです。英語だと、Our Lady of the Rocks。

上陸!
とても小さな島です。こういうクルーズでなければ、ぺラストの町から船が出ているので、そちらからも行けるそうです。


15世紀にこの岩礁に乗り上げた漁師が、聖母マリアのイコンが流れ着いているのを発見し、それを祀る為に建てられたのだとか。

教会の中はこんな感じ。

教会の中からみる海も美しいですね。


素敵な3時間でした。ちょっと潮風は肌寒いけどね!



そしてクルーズを終えて、この後、今回の旅の一番といってもいいくらいの見所がやってくるのですが、この記事が長すぎておさまらなさそうなので、④で終えようと思っていた、このバルカン旅行記ですが、次に続きます。次がラストです!





◆バルカン旅行記
バルカン旅行記①~世界遺産の旧市街、モンテネグロの街コトル~
バルカン旅行記②~魅惑のボスニア・ヘルツェゴビナ、首都サラエボへ~
バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~
バルカン旅行記④~メジュゴリエ、ステチュツィ、そしてモンテネグロへの帰還~(このページ)
バルカン旅行記⑤~夢のスヴェティ・ステファンとオストログ修道院~






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バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~

2017年10月20日
さて、サラエボ2日目。

本日はブラックツーリズムの詰め合わせでございます。割とハードな内容がありますので、覚悟してかかってくださいませ。


まず、サラエボ市内を歩いて、ある場所に向かいます。
途中、人々の営みを感じる街中でありながら、気付く事があります。

そう、建物が…銃撃の痕だらけ…。


たった20年前まで、この地はユーゴスラヴィア紛争、とりわけ厳しかったボスニア紛争の激戦地だったのですね。
自分の備忘も兼ねて、ユーゴ紛争について簡単におさらい(私の付け焼刃サマリーなので、ご指摘あれば宜しくお願いします)↓

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・ユーゴスラヴィア連邦の一員であったボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴ解体(クロアチア独立等)の動きを受け、1992年3月に独立を宣言。
・ボスニアはそもそも、ボスニャク人(ムスリム)が4割・セルビア人(正教徒)が3割・クロアチア人(正教徒)が2割と、ほぼ均衡するような形で異なる民族が共存していたが、独立を求めていたのは、このうち、ボスニャク人やクロアチア人だった。
・ゆえに独立に反発するセルビア人と、セルビア人を無視する形で独立を進めたボスニャク人との民族間対立は劇的に悪化、独立宣言翌月には武力衝突が発生する事態へ(クロアチア人は独立支持派ではあったものの、ボスニャク人と一枚岩ではなかった)。
・ユーゴ解体を避けたいユーゴ連邦軍はセルビア人を支持し、ボスニャク人勢力と衝突、ボスニア全土で、両陣営による空爆や民族浄化といった、おぞましく、激しい内戦が繰り広げられることとなった。
・激しい戦闘は3年半続き、1995年10月に漸く和平合意がなされた。
・この内紛は死者20万人、避難民200万人を出したとされる。
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途中、公園を通りましたが、記念碑と銅像がありました。

銅像の横には、看板があり、英語の記載もあったので読んでみると…
スレブレニツァ(後ほど書きますが、ボスニア紛争でボスニャク人への大虐殺のあった村の名前)で、セルビア軍に捕まったボスニャク人の息子ネルミンに、降伏するよう呼びかける父、ラモの様子だそうです。後にこの親子は、2008年に虐殺の跡地から遺骨が見つかったそうです。
誰かがこの姿をみて、記憶に残し、この銅像を建てる事を考えたのでしょう。
胸が痛みます。



記念碑の方には「ボスニア紛争で命を落とした子供たちの為に」と記載があります。子供の名前と生年、没年が刻まれています。よくみると、みんな私と同年代です。生きていたら、同級生だった子も沢山いました。黙祷。




そして、こちらは市内の道端に点在する「サラエボのバラ」。なんだと思いますか?

ここは市民が砲撃によって命を落とした場所で、えぐれたアスファルトに赤い樹脂を流し込んで固めたものです。その広がる赤いさまから、「サラエボのバラ」と呼ぶのだそうです。

樹脂で固めていないけれど、恐らくここも砲撃があったのだな、とわかる様なえぐれた場所が他にも何箇所もありました。



朝から行くべき場所ではないと思いつつも、こちらのギャラリーにちらりと足を運びました。(つきあってくれたA家ありがとう。母に話したら「またそんな場所行ったの!?」と呆れていました。)

ボスニア紛争では「民族浄化」と呼ばれる、おぞましい大量虐殺がありました。こちらのパネルはボスニアで虐殺が起きた場所を示す地図。


特にこのギャラリーのテーマになっている、スレブレニツァという場所で起きたジェノサイドは、世界的にも有名で、それに関するフォトギャラリーということで、腹をくくってみて来ました。(Wikiにも項目があるので、気になる方はどうぞ。「スレブレニツァの虐殺」)

写真は禁止なので、入口のパネルのみ。



大量のビニールシートに包まれた、埋葬を待つ夥しい数の遺体(↑のパネルの写真)。
埋葬する為に集められたシャベルの山。
亡くなった方の名前が延々と刻まれたパネル。恐らく一家全滅だったのだろうということは、同じ苗字の方の名前が長く続いているのを見て、推測する。
代理戦争に興じる国際社会を揶揄する風刺ポスター。
いたるところから煙のあがる廃墟の中、寝かされている赤ちゃん。
砲弾が弧を描いて着弾し、爆発する映像。


なんというか、カラーの映像が残っている、ということに衝撃を受けてしまった。
人間は、あやまちを繰り返すおろかな生き物だなあ。

このギャラリーでは、こちらのポスターに胸をわしづかみにされたので、購入。


UN - United Nothing
と書かれています。国連からPKO軍として派遣されたオランダ兵が壁に落書きしたもの、と言われていますが、これ以上の皮肉があるでしょうか。
激戦地へ派遣され、その場にいるだけで何もできない。彼は何を思ってこれを書いたのでしょう。




そして、気持ちが落ち込んだあとに向かった場所は、こちらの黄色い建物、”Holiday Inn Hotel"。

今Holiday Hotelという名前になっていますが、ボスニア紛争時、市内で唯一営業を続けたホテルで、多くの報道記者がこちらのホテルに滞在し、ボスニア紛争の現状を世界中に発信していたそうです。


中は割とにぎわっていました。我々はコーヒーを1杯いただく。
夫にLINE電話で繋いでみたら、「どこおんねん!」とつっこまれました笑。
 



このホテルの前の、この大通りも大変有名で、別名”スナイパー通り”と呼ばれていました。
 
何故かというと、ボスニア紛争時に、両陣営が、この通りを通るものは老若男女動くものはなんでも片っ端から狙撃していたからだそうです。(尚、水を汲んだりする為に、この通りを通る必要がある人は多かったのだそう。)




それから、少し離れた場所にある、こちらは広大なお墓。
真新しい白い墓石の数々。刻まれた没年は、のきなみボスニア紛争の起きていた1992年~1995年です。

中には、5人家族全員同じ没年が刻まれた並んだ墓石も。
さすがの我々も、閉口。またしても合掌、黙祷。




それから、サラエボで最後に訪れたのが、こちらの博物館。

http://tunelspasa.ba/#Dobrodo%C5%A1li
サラエボ・トンネル博物館


博物館の壁も見事な蜂の巣状態ですね。


サラエボはボスニア紛争時に、敵陣営に完全に包囲され、物流ルートのほぼ全てを遮断されました。そんな状況下、医療物資や食料品、負傷者や病人の輸送の為に、秘密裏に作られたのが、サラエボ郊外から、サラエボ市内へ抜けるこの約800mのトンネルでした。


どれくらい包囲されていたかというと、パネルによればこんな感じ。詰んでます、四面楚歌。
赤い部分は全て敵、敵のいないところは山です。




今はたった数mしか残っていませんが、トンネルの内部にも入ることができます。
 
映像をみると、雨水がしたたり、とても快適にはみえませんが、サラエボ市内に残された人々の、命綱の役目を果たしていたわけですね。



博物館の敷地には"The Place that ended 20th Century(20世紀を終えた場所)”と書かれた看板がありました。

20世紀を終えた場所をあとにし、次の目的地へ向かいます。




途中、いたるところに”Don't Foreget" / "Never Forget"といった標語が書かれた壁を見かけました。


ボスニア内戦は、まだ歴史に出来ていない、消化しきれていない、今も人の胸に生きている出来事なのだと改めて実感。
移動中のどんな小さな村の家の壁にも、銃撃の痕が残っていた事は、きっと忘れません。





さて、気持ちを切り替えて次の目的地はモスタル。サラエボから南へ120kmほど下った場所にあります。
モスタルには世界遺産の有名な橋、ネレトヴァ川に架かる「スタリ・モスト(古い橋)」があります。
 
最近ではクロアチアのドブロブニクなんかからも、1日ツアーが出ているので、訪れる日本人が増えているそうです。


この橋は、残念ながらボスニア内戦の時に破壊され、2004年になって再建されたもの。

やはり、モスタルにも悲しい歴史がありました。

ボスニア紛争前、モスタルは各民族がモザイクのように入り乱れて暮らす街だったそうです。
モスタルは紛争中、18ヶ月の間包囲状態となり、両陣営がそれぞれ教会やモスクを破壊しあう激しい戦闘が続きました。
そして今では、橋をはさんで片側がキリスト教徒、片側がムスリムの住む街、という風に東西に分断されて暮らすようになってしまったそうです。


10年前にモスタルを訪れた方に「当時はまだ暗くて、橋も再建されておらず、とても観光地と呼べる場所ではなかった」と言われたので、モスタルの街と人々が、一体どれほどの悲しみや憎しみを飲み込んで、今この場所で、隣りあわせで暮らし、復興を遂げてきたのだろうと、こみ上げるものがありました。



モスタルの街中の壁にも書いてありました。「スレブレニツアを忘れない」と。
 




そして今回のお宿。
Mちゃんが選んでくれたお宿がね、最高にね、可愛いんですよ!!!
お人形が部屋を出たところに座っているんですが、等身大サイズなので、けっこう怖い…。ドアあけるといるので、毎度「ひぇっ」ってなってました。

博物館もかねたこのお宿。オスマン帝国時代からの名家のおうちだった場所らしいのですが、奇跡的にもボスニア紛争中で被害をほとんどうけず、こうして残ってくれていました。

Webもあったよ。
http://www.muslibegovichouse.com/


お部屋の内装も可愛いよー。
 


荷物を置いて、再び出かけます。
スタリモスト以外にも可愛い橋があるので、行かれる方はぜひお散歩を。





移動に疲れた我々は橋を眺める特等席を陣取って、くれゆく夕日を眺めることにしました。日没後のライトアップされた橋も素敵でした。
 


夕食は、ボスニアのお肉をもりもり食べました。こんなにTHE・肉!なのに、意外とすんなり全部食べたし、胃もたれもしなかった。ビールはモスタルのビール、モスタルスキェを頂きました。



そんな感じでサラエボとモスタルな長い1日終了。
この晩は、あまりにも胸がいっぱいで、サラエボで見たもの、モスタルで感じたもの、道中で気付いたこと等々、夫と夜1時間くらい長電話してしまった(日本は早朝だったのに、付き合ってくれた夫ありがとう)。

人道的介入ってなんだろうかとか、なんか色々頭をぐるぐる回る夜でした。



次回はまた移動日ですよ!これからはライトな部分のみ!



バルカン旅行記①~世界遺産の旧市街、モンテネグロの街コトル~
バルカン旅行記②~魅惑のボスニア・ヘルツェゴビナ、首都サラエボへ~
バルカン旅行記③~サラエボ2日目と世界遺産モスタルの橋~(このページ)
バルカン旅行記④~メジュゴリエ、ステチュツィ、そしてモンテネグロへの帰還~
バルカン旅行記⑤~夢のスヴェティ・ステファンとオストログ修道院~








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